2014-04-07

すまい探偵帖@石巻 vol.6



            
 
 
 

 
 
 
すまい探偵帖@石巻006
「第二の謎・設計者」下
 

◆波をかぶり緊急保存のため現在冷凍保存されている捨松さんの「作事帳」。これが解禁されれば、神山家の設計施工の実態がもっと明確になるだろう。私は、捨松さんと及川棟梁が主体となって実際に施工を進めながら設計デザインを決めていき、更に地域の人々も設計に加わった可能性があると推理する。
◆昔の施主は、設計もやる。もちろん職人ではないから施工はできないが、技能を評価できるだけの審美眼もあった。施主は、現場監督的な役割も果たして、お金を管理し材料の調達や職人の手配を行なった。神山家の作り方は、この直営方式に近かったと思う。
◆それを強く感じるのは、前に触れた正方形の神棚だ。あの二重三重に考え抜かれたデザイン構成は単なる思いつきで作れるものではない。捨松さんと地域の人々と気仙大工の知恵と技術の結晶なのではないか?
◆立派な神棚は石巻市河南町などの富裕層の民家にも見られる。この辺は特に神様を大事にする地域なのだ。気仙大工の地元では神棚より仏壇が立派で気仙大工は仏壇が得意との評価が高い。だが、別に神棚が苦手という訳ではない。
◆気仙大工は何でもこなす。そうでなければ出稼ぎはできない。基本は家大工だが、神社・仏閣をも造れる技術があり、更に高所作業が得意で建具や指し物も彫刻までやってしまうスーパー大工だから引く手あまただったのだ。
◆伊達政宗は氾濫する北上川を改修し、低湿地の新田開発をおこなった。その結果石高が増大、各地から農民が入植した。もともと大工などの職人は少ない地域だったから気仙大工は大歓迎。仕事を通じて地元の大工に技術を教える先生でもあった。農繁期は農作業も手伝ったし、真面目で堅いと定評のある気仙大工は更に気に入られて婿養子になった記録もある。
◆あるいは小四郎さんは橋浦に婿養子に来たのではあるまいか?その仕事を指導し一人前にするために父親の平三郎棟梁が気仙から来たというのは妄想だろうか?「息子が地域の人に大事にされ、嫁さんが綺麗で良かったなぁ…」平三郎棟梁の感謝の気持ちもあの神棚に込められているのではと考えたくなってしまう。
◆棟礼にある「外大工五人」は小四郎さんの弟子か仲間か?いずれにせよ、この家は、気仙大工の「技術伝承の学校」だった可能性もある。神山家であえて気仙大工の伝統のデザインではない正方形に挑戦した物語も読み取れるのではないだろうか?推理(妄想?)はどんどん広がっていくのである。
 
 
MEMO
◆もっと推理(妄想?)を進めていくと、この地域は薪の一大産地、仙台の燃料基地だった。また、薪は製塩の燃料でもあった。リアス式で平地が少なく塩田が開けないため、鉄釜で海水を煮詰める製塩の燃料にも使われていた


 
 
 
 
先月、神山家を直接訪れ
田辺さんという方にいろいろとご説明い
ただいたのですが、
人が住まう上で必要のない(?)とこ
ろにまで趣向が凝らされたつくりのこの家に
終始にやにやしっぱなし 。

服でいう、見えない裏地にまで刺繍されてるー、うー、み
たいな。
 
でも、そんなものこそ 愛着がわいたりするんですよね。
 
見方がわかると
なんで
もおもしろく見えてきて仕方ないです。

のちのち、神山家はゲストハウスなどの公共施設になっていく予定だそうです。
機会があれば、ぜひ足をはこんでみてくださいネ。


https://www.facebook.com/onosakikominka
 
 
i kin ye!!
 
 
 
♪ 宮城 愛

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