2014-06-12

すまい探偵帖@石巻 vol.9







すまい探偵帖@石巻009
「第4の謎・配置」上
 

◆神山家は西を向いている。建築設計の常識から見れば、西向きの家は非常識。東に山が迫り西に海だから敷地が南北に細長い形なら納得できる。だが、敷地はむしろ正方形に近い。南向きに配置することも十分可能なはずだ。事実、養蚕小屋は、南向きに建てられていた。なぜ、西向きにしたのか?今回はこの謎を考えてみたい。
◆私は、やはり正方形の神棚に謎を解く鍵があると考える。神山家の生業は漁業と運輸業、製塩も行っていたらしい。全て海の恵みで生計を立てていた。だが海は、海難事故や津波などの災害ももたらす。だから立派な神棚を作り、安全と幸福を祈ったのだ。
◆明治29年(1896)三陸大津波が起きた。尾崎地区の被害状況はよく分からないが、女川では3.1メートルまで水があがった。岩手県が最大の被害を受けたが、宮城県でも、流失、全壊、半壊戸数が1372戸だった。このとき捨松さんは29歳、その恐ろしさを体験していたはずである。神棚はまっすぐこの海に面し、最大限災害から家族や家を守る必要があったのではないか?つまり家の向きを決める上で神棚の向きが重要だったのではないか?
◆それともう一つ。できるだけ海から離して家を作ることも重要だ。高波が来ても被害は少なくなる。すると答えはできるだけ山側に基壇を高くして西向きの配置になる。事実基壇の石積みの高さは60センチある。これは推測に過ぎないが、三陸津波はこの基壇の高さまで来たのではないだろうか?もし、それ以上水が来たら山の中腹に新築した可能性もある。
◆尾崎地区は相当古くから人々が暮らしていた。長面浦は、海水と淡水が混じり合った汽水域で、特産の殻付き牡蠣など魚介が豊富に採れる。神山家から南にいけば縄文時代の大浦貝塚、中世の館跡もある。海の恵みに加えて北上川の河口にあって交通の要衝であり歴史が古い場所なのだ。
◆神山家は尾崎浜の南端に位置する。尾崎浜の住宅は、南から北へ開発されたという。神山家の本家は中世までさかのぼれるという話も聞いた。
神山家の菩提寺である海蔵庵は、延元元年から貞和四年(1335~1345)の間に天台宗のお寺として建立された。室町時代の始まりの時期、足利尊氏が活躍し吉田兼好の徒然草が書かれた頃だ。海蔵庵には板碑群があって古いものは鎌倉時代とされている。
◆縄文時代から人々が暮らしていた尾崎地区はその長い歴史で何回か津波や高波の被害もあったはずだ。その歴史の証言者があの神棚のような気がしてならない。


(文・一級建築士 那須武秀さん)




i kin ye!!



♪ this is the kid
 
 
雨の中の this is the kid は心地よい。
 

 

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